最後のアナログVTR

    厚木の総力をあげて設計・製造し、2回目のVTR全面戦争にエースで登場させた。1985年に設計に着手して1987年の夏にオンラインさせた。その何年か後に製造所を厚木から湖西テックに移し、都合10年ほど継続生産した超ロングライフのモデルである。累計生産台数は知らないが、このモデル名を知らない業界人は潜りである。いまだに中古市場で流通している名機中の名機。瞬間風速的マーケットシェアーは限りなく100%に近かった。アンペックス、トムソンなどにもOEMした。累計売上額は1兆数千億円!

大規模プロジェクト

   プロジェクトには電気・メカ合わせて50人は居るトンデモナイ規模であった。設計完了までの道のりは丸2年間でその間は月月火水木金金、四当五落の苦しくて長い日々の連続であった。あまりのプレッシャーに、恥ずかしながら私は神経性円形脱毛症になってしまった。あ、そうそう不整脈にもなってもうて、えらい大変だった!全員が痩せ尾根の獣道を行くが如し、何時何時、心身障害を起こして奈落の底にまっしぐら落下してもおかしくない状態であった。全員の気持ちをつないでいたのは、この戦いに負けたら明日がないと言う切迫感と負けてなるものかと言う不退転の気概だったと思う。もう、30年以上も前(1986〜1988年頃)のことだが、いまだに悪夢となって甦ることがある。気がつくと脂汗べっとり!!

悲しい出来事

   激務との因果関係は立証できないが、発売前に2名の仲間をロストしてしまった。悲しい現実であったが、ご家族はそれ以上に深刻な打撃を受けた。折にふれ関係者は彼等の犠牲の上にこの大成功がもたらされた事実を思い起こして欲しい。 

マンハッタンとんぼ返り

   又してもNBCの横槍が入った。Pの部下M.Wが映像信号のセットアップについてバズ・ノイズを立て始めた。彼の言い分が如何に不条理で馬鹿げたことかと言うシナリオを用意して、カナダCBCの論客(お名前失念)を味方に巻き込んで、マンハッタンはエイボンビルの50数階の会議室で激論を交わした。もちろん、ネーティブの論客にシナリオを吹き込んでその会議に臨んだ。あのシナリオの原紙は何所にあるか覚えていないが、成田の待合室で一生懸命に資料を書いたのを覚えている。搭乗予定のUAのB-747SRの翼に積もった雪降ろしの為に2時間ほど遅発だったのが幸いした。後にも先にもNY2時間ミーティングにとんぼ返りで行って来たのはこの時だけしかない。

真夜中の奇々怪々

   夜中12時を回ると段々と集中力が途切れてくるようだ。ビデオS/Nがイマイチ良くなくて苦しんでいるとき、突然、これまでに経験したことがないベストの値が出た。複数の眼で確認して、夜も遅く午前2時ごろだったのでその日は晴れ晴れした気分で帰った。夜が明けて再度S/Nを測ると非常に悪かった。あの2時ごろの数字は幻覚だったのか・・・、未だに謎である!早く帰れと言う神の思し召しだったのか・・・? 後日プリエン/ディエンの温特不均衡が原因と判明!

夜10時の定期便

    毎晩、10時になると近くのコンビニへ夜食の買い出しに行った。なぜ10時か?その頃に新しいおにぎりが店頭に並ぶのである。

夜明けのコーヒー

   当時としてはメニュー豊富なベンディングマシーンがオフィスの前に設置されていた。何杯の夜明けのコーヒーを飲んだか覚えていない。沢山であるのは間違いない。

酒気帯び入門

   休出の昼は、銀八鮨で1.5人前のニギリとビールをオーダーするのが常であった。事情が事情なので守衛さんも社則破りを見て見ぬふりをしてくれた。大らかな時代でもあった! 

カラーフレーミング

   様々なコーデック履歴を持つ信号同士の編集において最適カラーフレーミングが維持できる方式を机上で検討し実験なしの見切り発車で本番に盛り込んだ。検証する間もなく新しい仕事に就いた。唯一、この方式の善し悪しが気掛かりであったが結果オーライだったようだ。

詭弁を弄したセールスピッチ

   製品の完成が近くなると売り口上を準備しなくてはならなかった。普通はセールスサイドで作成するのだが、この時ばかりは負けられない勝負につきお鉢が回ってきた。物理的な諸元(性能)の差異はテープサイズの違いで明々白々であるが、そこを曲げて何とかしなければならなかった。鉛筆をナメナメ無い知恵を絞ってセールスピッチを書き上げたのを覚えている。どう言う論法で詭弁を弄したか資料が残っていたら吟味してみたいものだ・・・。ははは!

SMPTEのWGとの確執

   ベータカムSP仕様はSMPTEのフォーマットLに制定されている。フォーマットを仔細に検討するWorking GroupはアメリカABC放送のBob Thomas技術部長がチェアマンを務めていた。詳細は忘却の彼方であるが逐一細かな突っ込みがあった。兎に角、印象的には煩いオヤジでした。当時は今みたいなメールはありませんのでFAXで遣り取りしていました。兎も角も、紆余曲折を経て落ち着くところに落ち着きSMPTEのお墨付きをゲットしたのであった。


BOBに会いにマンハッタンへ

   1987年7月ベータカムSPのカムコーダ(機種名を忘れた)とBVW−75を2式ずつハンドキャリーしてABCの最終評価のためにマンハッタンのABC本社に向かった。一人で運ぶのには結構な物量であった。JFKのラゲージ・クレームで荷物が出てくるのを待っていると怪しげな黒い大男が寄り添って来て何やら喋ったので言下にノー・サンキュー!と怒鳴ってやった。彼としては本当に親切心だったかもしれなかったが、トラの子に何か問題が起きると大問題なのでピリピリしていた。

カート2台に荷物を積んで振分荷物のように前に押し、後ろに曳いてヨタヨタとイミグレーションのゲートまで来ると、また怪しげなオッサンが寄ってきてIDをチョロッと見せてムニャムニャ。IDを良く見せろちゃんと喋れと言ってやったら何とイミグレの係官でお前のためにスペシャル・パスを用意しているこっちへ・・・と言うことになった。半信半疑でついて行ったら、ほ〜んとに親切な人達でした。バンバンとカルネにハンコを押してトラックに載せるまでの荷物運びの人まで付けてくれた。おー、これがアメリカの良いとこ!

   次の日、ABCに行ってそのBOBに初めて会ったが、過去の遣り取りがあったので初めて会った気がしなかった。その遣り取りの突っ込みは厳しかったよと嫌みを言ったら、誤解しちゃー困るよあれはチェアマンの立場だからねと諭された。勿論その辺の機微は理解している積りではあったが・・・。近くのレストランでお昼をご馳走になった。食事中、しみじみとアメリカの製造業の衰退を嘆いて居られた。年齢的にはアメリカの古き良き時代に青春時代を過ごした感じでした。引退後は玩具屋さんを開くのが夢とか・・・どうされていることか・・・。

カマロSでマンハッタンへ

   同じ部にいたNがNJオフィスに赴任していたのでABCへは彼の愛車カマロ・スポーツで・・・。免許は携行していなかったが彼の粋な計らい(?)でジョージワシントン橋の先まで運転させて貰った。途中で馴染みの「山口」に立ち寄った、流石にマンハッタンの中は遠慮した。このあとNとはローカルの展示会でワシントンDCまで一緒した。その際、ニューアーク空港でチョットしたハプニングに巻き込まれたがそれは別の機会に・・・。

VTRとの惜別

   私にとってはABCへの旅がVTRとの惜別の旅であった。最後のご奉公と称してセンチメンタル・ジャーニーを計画してくれた上司Tアキさんに感謝しています。このあと8月から新規事業部へ名実ともに異動した。