老舗GVGが怯える

   新たに発足したシステム事業部にVTR部隊から1987.8に移って、最初に世の中に送り出したのがこの機種だった。事業部発足の少し前にGVGとの代理店契約が切れたのを機に絶縁した。今後はあなた方のビジネス領域に参入するよし云々・・・。これにGVGは大いに立腹し「お前らは地獄におちる」的な脅迫めいた逆絶縁状がFAXで届いた。チョット大人気ない感じを受けたが、むしろ発奮材料になった。そうこうしているうちに、メキシコだったかアメリカの代理店がGVG内部のFAXを入手し厚木へ転送してきた。FAXの行間にこの駄作(当時はそうは思っていなかったが・・)に怯えている様子が読んで取れた。その怯え(思い込みだったかもしれない)が我々をして強気にせしめた!内心、あいつらが相手だとシンドイと思っていたが、強気で押せば勝てると確信めいたものが湧いてきた。ベータカム戦争を勝ち抜いてきていたので戦いはお手のものだった。上司のT曰く君等は歴戦の勇士。

K研究所生まれ

   ビデオ信号のデジタル処理を研究していたK研究所でDME-450のピクチャー・マニピュレーション・エンジンは生まれた。エンジンはPCオリエンテッドのRGB処理方式で、ビデオ用としては些かリダンダントではあった。適応型のフィルタリングもプアーで今となっては冷汗ものである。その辺はDFS-500で直すのだがこの時はそのままで進めた。ビジネス感覚の鋭かった上司Tの命を受けK先輩と本社に至近のK研を訪ね、開発者の話を聞いたのがこのモデルのキックオフであった。マンマシーン・インターフェースを随分と気にしていたのを覚えている。

使いやすいコンパネ?

   スイッチャー初心者の私でも使えるDME-450をコンセプトに、エンジンの仕様を勘案してコントロールパネル(マンマシーン・インターフェース)を設計した。当時はワープロ全盛で東芝のを大枚はたいて個人で購入したばっかりであった。お絵描きは苦手なワープロを駆使してパネル図面を起こした。意匠デザイナーが見違えるほどに仕上げてくれるものと期待していたが、私が書いたオリジナルと変わるところがなくガッカリしたのを覚えている。パネルが見た目にダサイのはそんなことによる。しかし、使い方は初心者でも直ぐに会得できた。出来るだけ直観的に操作できるように配慮した甲斐があった。

PCベースと競う

   MACのマッキントッシュを利用してDME-450同様のエフェクトをノンリアルタイムで提供するトースター他の製品があった。しかし、DME-450のリアルタイム処理の利便性がユーザーには受けた。NABでは女社長Kiki嬢が自らトースターのデモをやっていた。細身でややエキセントリックなイメージがした年増のミニスカートおばはんでした。背の高い腰掛け上でこれ見よがしに足を組み替えるさまを覚えている御仁は多い筈!!昼間から見たくないものを見せられ目のやり場に困った。同じ状況にハリウッドでグラマラスLinda嬢相手に遭遇するがそれはこれから数年後のことである。

幸先の良い船出

   4文字の暖簾と強固なセールスチャンネルの賜物だったと思うが、新規事業部の第1弾製品としては期待以上の成果を上げた。テキサスのセールスおばさんに感謝された時は彼女彼等コミッションで生活している人達を支える機材になったのだと実感した。東場の水遊びで飛ばしたイーソーが思いのほか良く飛んだ(訳わからない表現で失礼)。この時まではTのビジネス感覚は冴えていたようだ。この後は段々と冴えが鈍って行くのだが・・・。

ベストセラーDFS-500へ引き継がれる

   がしかし、技術的な課題を結構抱えていた。継続こそ力なり!一の矢の次は二の矢、三の矢と矢継ぎ早に打ちこんで行かねば釣果は雑魚だけで終わってしまう。そこで気合いを入れて後継機のDFS-500を作ることにした。慎重かつアグレッシブにディーラー・インタービューを敢行し仕様を固めた。中堅エンジニアーのMをトレードして設計陣容も強化した。DFS-500には非常にパワフルなエフェクトを用意した。中国では確か「一日一天」のキャッチで持て囃された。彼国はエフェクト好きする国民性なのです。