ビジネスの柱をもう一つ

   VTRビジネスでゲインした資金でもう一本ビジネスの柱を立てようと言うことで始めたのがスイッチャーなどのビデオ信号処理機器を商品とするシステム事業部である。当初はシステムビジネスは大変美味しそうに見えたが、本格的に始めた数年後に「システムビジネスで儲けた奴はいない、儲かるのは政府の仕事だけ」と言う事に気がつくのであった。

寄せ集め集団

   VTRとカメラが主製品であるのは厳然とした事実であり、主力部隊を温存した上で余った人員を寄せ集めて新規事業部はスタートした。専門家は僅かであったが居るにはいた。私も含めて大半はスイッチャーなどのビデオ信号処理機器について全くの素人であった。太っ腹なTは半年ほど勉強だけしていれば良いと言ってくれた。素人が半年ばっかりの勉強でスイッチャーの何たるかを全てキャッチアップ出来るわけはないが皆さんそれぞれの立場で全力を尽くした。数年後チャンピオンへの道を歩み始めたわけだが、厚木の凄さはこの辺にある。我々は主力部隊の落ちコボレ集団(失礼!)、言わば二軍選手だけで世界チャンピオンを目指したのであった。

成功の鍵の一つプロトコル

   Tはプロトコルの重要性を認識していた。10年先を見据えて拡張性のあるただ1種類のプロトコル体系を考えろとの下命があった。ソフト・エンジニアーのFにその作業をお願いした。後年、この1種類のプロトコルのお陰でBiz的に苦しい状況を乗り切ることができた。最初に体系を考えたFはシンドかったと思うが後々の業務効率が大幅にアップしたのは間違いない。彼は礎を築いた一人である。

販社の人員補強

   誰の指示でアメリカとヨーロッパの販社がスイッチャー要員を補強したのかは知らない。恐らくTの指示だったでしょう。彼等はVTR関係者とは違う人種で、最初に厚木に集結したのはおそらく1988年の夏ではなかったかと思う。何処かにその時の記念写真が残っている筈である。ボストンの放送局からS.VとS.D、ロンドンのメーカ、ほか・・・。 

DVS-8000のパネル

   彼等と滑った転んだの議論をしながら、ハサミとノリでパネルを作った。機能ブロックの図面を切ったり貼ったりしてパネル原案を作った。今思えばお寒い限りである。状況・経緯をYに報告したら、売れるか売れないかのON-OFFで中間はないだろうとのご託宣であった。その心は、国際的な妥協の産物だからとのこと、判ったようで判らなかった。既に日本以外で業界スタンダードになっているGVGのM/E構造のコンセプトだけは外さない・譲らないようにした。今更、独自性を打ち出してもろくな結果ないならないと判断したからである。兎も角、パネルはオペレーション・カルチャーのせめぎ合いの場である。

営業の抵抗

   最初に反発を食らったのは、頼りにしなければならない国内の営業、中でも責任者のSに公然と非難された時は情けなかった。彼は時を置かずして心変わりをして熱心なサポーターになってくれた。Sの後任のAは更に販売に力を入れてくれた。お陰で国内のシェアーはグングンとウナギ登り状態になった。

お客さんの支援

   DVS-8000は完成度40%程度で発売に踏み切った。それまでVTRとかカメラの様に完成度100%の製品しか扱わなかったQA部門から物凄い抵抗にあったが、事業部責任の葵の御紋で押し切った。そんな低完成度にも拘らず、I社のIさんをはじめ多くの方から多大なる支援を頂いた。その背景には世界に通用する国産品を作って欲しいと言う切なる願いがあった。何故なら過去に海外メーカに煮え湯を飲まされて辟易していたからです。

1000万円を切ったDVS-6000

   スイッチャーの様に類似機能ブロックが沢山ある製品は、旗艦モデルを作ってダウンサイジングで派生モデルを作るのがベストの手法である。このような手法で極限までコストを切り詰めたのがDVS-6000である。NAB後の内覧会のセミナーで1000万円を切るデジタルスイッチャーとブチ上げたのが思い出される。購入頂いたお客様から、接続してスイッチを入れるだけで動く!と驚きの一報があった。そうです、それまでのスイッチャーはまともに動くまで時間が掛かっていたのです。

マーケットシェア-50%を狙う

   世界中の販社の関係者を厚木に集めてプロダクトミーティングと称する新製品開発会議をやった折、マーケットシェア-はまだ0%であったが50%を狙って行こうと気合いを入れたら、アメリカのマネジャーが「誰がやるのですか?」と暢気なことことを言ったので、間髪を入れず「お前だー!他に誰がいる?」と発破をかけた。在任中に50%には届かなかったが40%には届いていた。国内に限れば100%に近かったのではなかったか・・・。

DVS-7000

   丁度フジTVがお台場へ移動するころに製品化された。移設計画との絡みもあって企画段階で図面を携えインタビューに何度かお伺いした。10項目程度の改善要求を頂いたが実施できたのは数項目であった。しかし、それまでの局のオーダーメード信奉からレディーメード受容への大きな方針転換のうねりの中で喜んで貰えたのは幸いであった。この機種はアメリカ・マーケットの強い要求を受けて作ったのであるが、この頃になると国内の認知度も高く指名買いもかなりでてきた。口の悪いお客さんに「何かお宅の機器を買うために仕事しているようなもんだ!」と冗談と本音ともつかないことを言われた。

ホテルの廊下で口論

   NABの定宿、ラスベガスはバリーズの1階廊下で人目も憚らず口角泡を飛ばし上司Tと大激論になった。Tは戦艦大和みたいな大艦巨砲主義はもう終わりだ依って以てDVS-7000の開発を止めろ!マーケットサーベイでまだまだこのクラスのスイッチャーがないと業界が回って行かないと言う確信があったのと流行病みたいなノンリニア-・システムで全てのアプリケーションをカバーできないのは自明の理であるのでガンガンTとやりあった。最後に伝家の宝刀を抜かれて「お前はクビ!」と言い渡された。本当にクビに出来るものならやってみろと思っていた。その後クビにはならなかったが、「可愛くない奴」として人に紹介してくれた。

DVS-7000ベスト・プロダクトに選ばれる!

  1996年のNABでアメリカの業界紙よりベストプロダクトに選ばれた。この楯は捨てるに忍びなく我が家に置いてある。左から社長のチャーリー(元Ampex)、私、ランディー(Post Magagine)、エド(元GVG)。厚木ではエミー賞が所狭しと陳列されているが、エミー賞以下は何処にも置き場所がない。

ハイビジョンのドタバタ

   ハイビジョン用の本格的な大型スイッチャーを英国の開発部隊の協力を得て進めていた。ところが、経費節減だったか集中と選択の理由で開発中止の断が下った。NHK等の外圧が強まり早晩ハイビジョン用のスイッチャーも作らざるを得なくなると読んだのであの手この手で隠密裏に英国の開発業務を出来るだけ継続させ、デバイスの開発の切りが良いところまで引っ張った。

1年もしない内に読みが的中し、Yは前言をコロッと撤回し再開の号令をかけた!今度はヤンヤの納期督促である。上がブレると下は苦労する典型的なパターン。アングラの仕込みがあったから再開後1年程でスイッチャーを納品できた。ま、完成度には触れない方がいいでしょう。NHKとフジには謝りに行った!

もう一つのドタバタ

   スイッチャーを始めて間もない頃、TはD1が先かD2が先かで大いに揺れた。ミッドウェー海戦の様相であった。この辺、VTRが判断基準であったのがわかる。ポストプロダクションのことに重きがあれば答えはどう転んでもD1だったが、確かD2を先に出したのではなかったか・・・?

コンサルタントの愚

   始めたころは信用が無くて、誰の差し金か毛唐のコンサルタントがやってきた。2日ほどいたかな?出来の悪いコンサルタントであった。何にも得ることがなく馬鹿みたいだった。その後も、ヨーロッパの評論家だったかの訪問を受けたが、もうチョットで蹴飛ばしそうになった。ほ~んとこの手の業界ゴロには注意しなくてはなりません。

売られたケンカ

   ビデオと並行してオーディオも見ていた時、フランスの音楽プロから納品していたデジタルミキサーの件でペナルティー4000万円を請求された。完成度が低いのを承知で買った筈なのに完成度が低くてコンサートの収録が上手く行かなかった云々・・・。見え見えのこすからしい引掛け!同様にアメリカの音楽の都ナッシュビルのレコスタからも喧嘩を売られた。幸いなことにビデオスイッチャーではそんなことはなかった。

秘密のオファー

   珍しくYとTから電話があった。GVGから会社を400億で買って欲しいとの打診があるが買うかね?当時の厚木には金が唸っていたようです。普通だったらそんな途方もない金額では端から相談も何もあったものではない。それまでにGVGの特許に目ぼしい物がないのを調べていたのと海外の会社を買収した時に起きる現象「優秀な社員ほど辞めてしまう」を知っていたので、「高過ぎます。買わなくて構いません。間もなく追い落として見せます」とか何とか格好良い返事をしたのを覚えている。正しくアメリカのビジネス哲学は「豚は太らせて売れ」で、会社は商品、売り時を見極め売り抜けるのが鉄則。

シャルルドゴールのハプニング

   前後2回、計1か月に渡るCanal+との仕様打ち合わせを終えて勇躍シャルルドゴール空港の待合室へ。お~っと、帰りたい一心で1時間ほど早く来すぎた。時を同じくして身なりの良い初老のご夫婦も到着!大きな荷物があったので「長旅のようですね?」と何気なく聞いた時から危ない関係が始まった。長い話を短くすると、彼は日本の侠客13人衆の一人であることが後ほど判明した。しばらくの間、商品企画のあり方について自弁を披露されたのには閉口した。組織のトップになる人はそれなりの考えを持っているものである。

ダブル・ネガティブの危うさ!

   一時期おなじ釜の飯を食ったアメリカ人がNABのブースに訪ねて来たので、お世辞の積りで仮定法の二重否定形で話したらぶん殴られそうになった。「もしも、貴方が居なかったなら、このDVS-7000は作れなかった」と喋った積りでいたのだが、相手は「お前がいなかったから、DVS-7000が作れた」と取った。二重否定の片側の否定を聞き落とすとそのような意味になるのかな・・・。それ以来、ストレートで単純明快な喋りに気を付けるようにした。自分で思っているようには英語は通じないのである。私の様に赴任経験がない人は要注意である。