はじめに

   モノづくりについてしかめっ面をして堅苦しいことを書く積りはない(実のところ書けるだけの見識を持ち合わせていない)が、有名な兼好法師の徒然草の序段の行(本来は縦書き)
つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 
の心境で私の記憶が怪しくならないうちに、このページと後続各モデルのページに、あることないことを出来るだけ生々しく面白おかしく書き留め、厚木テックセンターで時間を共有した元の仲間達へ送りたい。幸い、掲載のモデルはディスコンモデル(生産中止機種)であり、また特許なども権利喪失している筈なので、気兼ねなくコメントできる。

昨今、時代はテープレスへ大きく転換しておりテープ時代に大活躍したこれらのモデルは今やその居場所がなくなって来ている。当プロフィールのページはそれ等生産中止機種(子供達)へのレクイエム(鎮魂歌)です。登場人物が実名では問題が起きるので、敬称なし苗字のイニシャルとした。当時の雰囲気を醸し出すツールとして、実際に使ったカタカナ英語を多用してみる。ご感想、あるいは思い違いを発見された方はメールでご一報ください。

ベビーブーマー

   昭和25年前後に生まれたベビーブーマーが、戦後あるいは明治以降の日本が国是としてきた「モノづくりによる貿易立国」の担い手であったのは紛れもない事実である。その世代の人達は知ってか知らずか、好むと好まざるに拘わらず、敗戦をバネに日本の復興に心血を注いでいる諸先輩の手先(企業戦士)となって世界を股に駆け巡ったのであった。

1990年ころはその世代が最も脂がのっている時期であり、日本として最も経済効率の高かった時期であったと考えられる。その結果、日本が破竹の勢いで世界経済を席巻して行った。実際、そのころは私も怖いもの知らずで、アロガント(傲慢)な態度だった(今でもそうだと言う声が聞こえてくるかな!?)と思う。この勢いは永久に持続するのではないかと錯覚したものである。

役目を終えて

   2008年の誕生日からフルマークのペンション受給者になる。しかしながら、身に染み付いたモノづくりの習性は消し難く、悲しいかな依然としてモノづくりと拘わりが持てるBiz環境に身を晒している。だが好い加減、気力は萎えてきている・・・。2008年の2月、追い打ちをかける様に、男の罹病率が極端に低いリューマチに罹ってしまった。半田付けなどの作業は支障なくこなせるが、気が滅入る、年貢の納め時かもしれない。

組織の興亡

   継続的Bizが可能なモノづくり組織を興すのは非常に難しいが、ダメにするのはいとも簡単である。常々、口にして仲間を叱咤激励していたのは組織の崩壊は組織の内から始まるのであって、決して他社とのBiz戦争の勝敗によるものではない。優れた指揮官の下にモチベーションの高い戦士が集まり、運が伴えば何をかいわんやである。連戦連勝は間違いありません。パナとの熾烈なVTRマーケット争奪戦に辛うじて2連勝できたのは幸運であった。 

諸悪の根源は設計にあり!

   厚木では有名なこのフレーズで多くの技術者が鍛えられた。兎に角、何か問題が起きる度に引用された耳だこフレーズでした。おいおい、そんなことまで設計に頼るなよと言うこともあったが、煩いので一言もクレームできないようにしてやろうじゃないかと奮起したものである。このフレーズを導入したカリスマ御大のMは茶目っ気豊かでECNを連発した若手に功労賞として金一封を奮発した。

アンプ検、メカ検

   電気回路設計と機構設計の設計検討会のことで、新人設計者にとっては「いや~な」先輩連中によるシゴカレの場でした。嫌みタップリの虐めを凌ぎ切り、切れの良い答弁で先輩諸氏に逆襲出来なければ、次のステップへ進めません。こう言うディベートを通して知らず知らずの内にDNAが伝承されていたように思っている。

Toy Model?

   貧乏性な国民性なのか、はたまた匠の血筋なのか最低限必要な剛性を確保しつつ極限まで贅肉落としを行うので重厚感は薄くなってくる。言葉汚い米3大ネットのどこだったかが、ブリキのおもちゃの様だと酷評してきた。確かに老舗米国メーカAの製品は惚れ惚れする様な作りであった。遊び心が横溢していたのでしょう。う~ん、逆に言うとそれだけだった。

許せない輩

   相当以前、駅ビルの「レストラン相模」に台湾と中国のお客を一緒に招いて歓迎会を挙行した輩がいる。誰が考えても無神経・ノー天気の極みである。台湾の連中は開演間もなく台湾国家を歌い出した。その途端に中国の連中は脱兎のごとく席を蹴って退出してしまった。商売のABCを知らないアホどもと思った。

上海の展示会でブース内にカラオケ設備を持ち込み、ご丁寧に勧誘に来たP社の名物(ストラディバリ)取締がいた。「Sはん、よう頑張ってまりはんなぁ~!ボチボチやりまひょいな。うちのブースに来てカラオケやりまへんか・・・?」まだ、展示会中なので終わったらお願いしますと丁重にお断りした。展示会を何と心得ている、お客に失礼ではないか!

NBCはイタリアン・マフィアの風聞があった。ある時、相当良い感じでなびいて来ている感じになり、求められるままにマル秘情報をディスクローズした。今にもサインするが如くのレスポンスを続けたが結局、情報だけ取られる結果となった。なかんずく技術のトップPは許しがたい。厚顔無恥なPは良い死に方はしないと思う。

エールの交換?

   NABとかIBCなどの国際展示会は敵状視察の場でもある。デジタル・スイッチャーを初めて展示した時に米国の老舗GVG社に申し入れした。お互いコソコソと盗み見するのは止めて、時間外に納得がゆくまで見せっこしませんか、と申し入れたところ2つ返事でOKとなった。そんな事があってか何年か後にGVG社の社長以下何人かが移籍して来た。この人的モビリティーの良さは両刃の剣ではあるが、アメリカ社会の特徴である。ど~も、人と人の繋がりは日本以上に強そうだ。親玉を抜けば一族郎党がゾロゾロついてくる。あのタマゴッチ社長はどうしているかな?

商品と製品

   製品は作るな商品を作れと口酸っぱく言われた。商品とは売れる製品のこと。兎に角、その担当商品カテゴリーで世界一にならないと社内で鼻もひっかけてくれない厳しい現実があった。 

商品企画

   実際のところ、商品企画は設計より難しい。商品企画の良し悪しが商品になるか製品になるかの分かれ目です。設計は企画を具現化するだけの作業だが、企画は無から有を生じさせるマジッシャンである。マーケットの現在と将来を洞察し売れる製品を具体的に提案する作業で、凡人には成し難い。

設計

   限られた予算内で、既知技術を有機的に組み合わせ、目標とする機能・性能を最大限に発揮せしめる、大いなる妥協行為である。しかし、技術屋の性として妥協は得意でなく、ややもすると先鋭的に暴走を始めてしまう。設計マネジャーが必要な所以である。

NIHの功罪

   気位の高い設計者であればある程にNIH(Not Invented Here)、自分達で開発した技術以外は使わないと言う気分が強い。製品の独自性の観点からは歓迎されるべきであるが、一方で開発速度の要素を忘れてはならない。時に機能ユニットを丸ごと流用するくらいの決断ができないようだと真の設計者とは言えないだろう。

口は災いの元

   NBCとのミーティングの席上で何が原因だったか覚えていないが腹立たしい心境になってつい日本語で相手の悪口を言ってしまった。そしたら日本語が分からないと思っていた相手の内の一人が急に日本語で云々!あの時ばかりは冷汗千斗であった。Bizの席上では無駄口禁物である。

NHKが国内のメーカを一堂に集めハイビジョンの決起集会をやったとき、ハイビジョン用の機材の価格目標を強要するようなスピーチがあった。当時、機材開発に躍起となっていた我々からすると到底実現できないような厳しいターゲットであった。勿論、苦しくともメーカとしてはそこを目指すわけだが、あまりにも高圧的だったので(しょう?)、おやじギャグで返礼した上司Eは満場の大喝采を浴びた。ど~も、NHKはそれが気に食わんかったようで後ほどEはきつ~いヤイトをすえられたと聞いた。ヤイトは熱かったろうなぁ~!

マーケット・サーベイの極意

   マーケット・サーベイに極意とか王道はない。地道に足で情報をかき集めるしかないのである。ただ漫然と情報を集めるだけだと猿でもできるし、あまり賢い方法とは言えない。また、インタビューの相手は現実しか見えていないし、全員が必ずしも将来像に対する独自のビジョンを持っているとは言えない。自分なりの結論の補強程度に位置づけ、行く先々で誘導尋問を試みるのが得策である。もちろん、見え見えの誘導は慎むべきではあるが・・・。

全米をグルリとサーベイした時は屈強な身体の現地セールスがボディーガードを兼務してくれた。何処へ行っても怖いことはなかった!NYの草鞋大のステーキとバケツ一杯のほうれん草は流石に食いきれなかった。前を見たらその大男さえも残していた。シアトルの八重桜、サンフランシスコのゲイ、シカゴのパスポート紛失騒ぎ、懐かしい思い出だ!

密会

   奇しくもロスアンジェルスで2度の密会をした。中々スリリングで気持ちが高揚したのを覚えている。最初のはカナダ・モントリオールのNLEソフト会社(今は存在していないかな?)、押しの強い強面のおっさんだった。ビバリーヒルズ近くのホテルの一室だったと記憶している。次のは、スターウォーズを製作したルーカス・フィルム。流石に御大ルーカスは出てこなかったがナンバー2以下数人とビデオ機材による映画制作について踏み込んだ議論をダウンタウンのホテルの一室ででやった。その時、冒頭で何でパナに相談しないでうちと話を始めるのかその理由を聞かせて欲しいと言ったら。冗談のような本当の返答があった。その場の状況から信用に足りると判断して話を先に進めた。今日の24Pフォーマットはその時の所産である。

ヒットアンドアウェー

   メディアでSPE(旧コロンビアピクチャーズ)のヒットアンドアウェーが取り上げられて久しい。嘆かわしいことであり、腹立たしいことではあるが海外の会社をM&Aでゲットするとそのような事が平気で起きる。のれん代と称して数千億の血税をロストしてしまう。会社についてくる従業員も残り滓みたいなのが多く始末に悪い。SDSの後始末の面倒を見た時も、まんまとごろつき同然のロイヤー(従業員)にしてやられた。ラスベガスで声を荒げて詰め寄ったが、言葉の壁は厚く、また手練手管のゴロツキ・ロイヤーには結果的に騙されてしまった。その為にDolby社にロイヤリティーを支払う事となった。奴は吸血蝙蝠まがいのダブルエージェントだったかもしれない。事ほど左様にハリウッドには魔物が棲んでいるのである。

アンチダンピング法の見えない影に怯え

   事の発端はこずるい仏トムソン社の策略に引っ掛かって日本製TVカメラにダンピングの裁定が下されたからである。某氏の一言がいけなかったと言うもっぱらの噂であった。それのとばっちりで所詮は裁定を下した裁判官の心証を逆なでする愚行をする羽目になった。当時、フロリダの工場の仕事が少なかったので渡りに舟とばかり、潜在的に米GVG社と同様のコンフリクトが予想される製品をその工場で生産することがトップダウンで決められてしまった。要はアメリカ産にする為のある種欺瞞的な行為である。苦労して現地部品調達率を上げ、ワーカーをトレーニングしてまともなアメリカ産ができるようになった。のもつかの間、その工場を閉鎖!フロリダでヨット・クルーズとゴルフを楽しませて貰っただけで良しとするか・・・。

大名旅行での大チョンボ

   年に1度西回りでストラテジーミーティングと称して世界漫遊の大名旅行がある。ある年、テロ事件の煽りを食ってヒースローの荷物チェックが一段と厳しくなって、機体の搭乗口直前でもチェックがあった。それまでの2回のチェックでは機内持ち込みで通してくれたのに、その直前チェックで私の手荷物は貨物室行きになった。ウッカリ、パスポートを入れたまま貨物室へ・・・。JFK到着直前のアナウンスで自分のやった愚行に気がついた。係員に同行してもらってラゲージ・クレーム場へ荷物を拾って入国手続き・・・。この一連のリカバリーで同行の皆さんを待たせてしまった。今でも申し訳なく思っている。


三国同盟の必然性?

   以前はスイスはレマン湖の東端、シオン城ちかくの風光明媚なモントルーで隔年に放送機器展が開催されていた。若い頃からヨーロッパ要員だったのかヨーロッパの展示会に良く出張させて貰った。モントルーまではアンカレジ経由で20時間ほど掛ったかな?最初にヨーロッパアルプスを車窓から見た時は感激したものです。展示会が終わると会場の後片付けの後、参加者が三々五々打上パーティーに参集しドンチャン騒ぎをするが、ある時あるテーブルに英語圏でない日独伊だけが期せずして集まった。全員が流暢でない英語ではあったが、枢軸国だった好か英語圏の連中とは得難いレベルの意思疎通が図れ大いに盛り上がった。三国同盟に至った背景の一つにそんなのがあったのではなかったかと憶測していた。

POPあれこれ

   サンタモニカ海岸から、また定宿にしていたミラマーシェラトンからもさほど遠くない所にハリウッドの映像の仕事をしているPacific Ocean Postはあった。オーナー社長は強面のA.コズロフスキーで現地セールスからは恐れられた人でした。我々が日本から訪問すると態度が軟化するので何か問題が起きるとセールスには担ぎ出された。POPの女性社員は何れも超別嬪さんでしかも縦板に水の応答でした。天は二物をあたわずと言うがここだけはそれが通用しないと思った!よくこれだけの人数、粒ぞろいを集めたものだと今でもそう思う。社長は頭の天辺から足の先まで山本カンサイの衣装で固めていた。また、ジーミーヘンドリックにギターの師事をしたとか、アコギを100本近くコレクションしているとか並みの人ではなかった。Buy Americanの雰囲気が強い中BVEシリーズの編集機が孤軍奮闘していた。それを足がかりにBVEとDVSの連携の良さを売り込んだ。結果チィーフエンジニアはその良さを大変良く理解してくれた。しかし、簡単にはGVG他の北米勢の牙城には切り込めなかった。何年か後にPOPは4MCにM&Aされてしまった。ハリウッド界隈の栄枯盛衰は平家物語の世界か?