パラダイムシフト

2005.4.2 投稿 10年ほど前に良く聞いた言葉。辞書には、次のようにありました。Paradigm:理論的枠組(ある時代・分野に特徴的な物の考え方・認識の枠組) Shift:移動,転換,変化,変更,転移 。

一方、平家物語の冒頭は・・・

  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

     沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。

        驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。

         猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

表現あるいは切り口は同じでないが、800年以上昔から日本人はパラダイムシフトに気づいていたことが分かる。ただ、渦中の人となると本流の行く先を正確に捉えら れないのも事実です。何故なら、自己否定をしないとシフトが起きていることさえ分からないから・・。自己否定は難しいですね!

軽い乗り「勝てば官軍、アスタマニアーナ(明日、間に合わ~な=明日にしようぜ:ジョーク訳)」で、ソロリと参りませう。🙂

点接触型トランジスター

2005.4.2 投稿 ニュージャージのベル研究所に行ったのは1980年ころだったと記憶している。何よりも印象に残っているのは、あのトランジスターの原点である点接触型ト ランジスターの実物と遭遇できた事です。さりげなく、簡素な展示ケースに収納してあった。ベルラボでは、産業界に絶大な貢献をしたトランジスターでさえこ のような取り扱いかと、一瞬やや気落ちしたが・・・・・・。

訪問先でその歴史的な所産に遭遇できるとは夢にも思っていなかったので、えらく感激したのを覚えている。昼食はいわゆる社員食堂に案内されたが、メニュー は本当にリッチでアメリカでありながら味も良かった。当時、うちの社員食堂は日本の平均的な社員食堂より遥かに良かったが、ベルラボとは比べようがなかっ た。

しかし、うちのローカルセールスのアホさ加減にはがっかりした。お陰で私の第六感はフル活動しました。ベルラボへの道をロストしてしまったのです。大分前 に一度ベルラボへ行った経験がある彼にベルラボ周辺の雰囲気を問質し後は私の鋭い方向感覚をフル活動させた。・・・この何年か後にも、ペンシルバニアとイ ギリスでも同じことを経験した。太陽さえ見えていれば、何とかなると自信を持った次第です。

佐藤継信

2005.4.1 投稿 11号を横切って西へ100mほど行ったところに大きなお墓があった。前は屋島湾へ流れ込んでいる牟礼川、後ろは讃岐名物(?)の大きな溜池、見上げれば屋島の稜線が見える。写真は溜池の土手から撮った。

Change, please!

2005.4.1 投稿 イギリスへ初めて行った時の出来事です。地下鉄(イギリスではチューブとも言う)の券売機はコインしか受付けてくれませんでした。ロンドンのピカデリー サーカスから乗車しようとしたときのことです。生憎、財布にコインが見当たりません。仕方なくヨレヨレの紙幣を出しながら、

恐る恐る駅員に 「Change, please!」と教わったとおりトライしました。 ところがドッコイ!相手は澄ました顔でピン札を出してくるではありませんか・・・。さて困った!

もう一度「Change・・」と言いかけた途端に、その駅員はニヤニヤしながらコインを渡してくれました。 はい!カラカワレタのでした!!イギリス人の鬱屈した独特の精神文化については、また日を改めて書き込みましょう。

ニューギニア上空

2005.4.1 投稿 豪州のBrisbane空港をTake-offして間も無く、コックピット・サービスをリクエストしておいた。機材はB747-200、機関士の乗務を必要とする初期のジャンボ。オーストラリア大陸を離れるころコックピットに案内された。

狭いコックピットに4人、ともかく入り口近くでヘッドセットをあてがわれた。程なくポートモレスビーの管制官からコンタクトがあった。SSBのFズレがあ るようでドナルドダック調にピッチがずれていた。この後、思いがけない特別サービスを受けたが、ここでの披露は控えたいが時効につき、何と副操縦席に座らせてくれた。

幸運を呼ぶ、エメラルドグリーンに白砂の島「蝙蝠島」も雲の切れ間から見えた。クルーも中々見ることが出来ない島だそうだ。そうそう、遥か東の方はその昔の激戦地ラバウル、回向を手向けると思わず涙がこみ上げてきた。

良き時代のサービス!そう言えば、機関士の方は双発尾車式プロペラ機DC3のライセンスも所持されていた。クルーの皆さんは、とっても親切な方々でした。

ブリスベンの一期一会

2005.4.1 投稿 1980年から1982年にかけてBrisbaneのVK4NQM/Grahameさんと10メータのSSBで良くQSOした。時は下って1997年ころ Sydneyに出張する機会があった。オペラハウス近くに停留している船で打ち上げパーティーをやったのだが、その最中に地元民の携帯を借りてグラハムさ んに電話をしてみた。

上手い具合に繋がって、ブリスベーンのヒルトンで会うことになった。約束の時間になってもロビーにそれらしき人が現れない。実はこのホテルのロビーが変則 的で、2階がロビー。多分、1階で待っているに違いないとエレベータで降りた。エレベータのドアー開くや二人は鉢合わせ、お互いに初対面であったが、お互 いがお互いであることが直ぐにわかった。

この後、楽しい夕食のひと時を彼の奥さんと3人で過ごした。今生で会えるとは思っていなかったが、記憶に残る出来事でした。

菜切地蔵

2005.3.31 投稿 今朝は少し早めに家を出て、通勤途上、100mほど南の小高い丘の上にある「菜切地蔵」を撮ってきました。おっと、カンパニーカーまで写ってしまった。上の説明書きは車の右側にありました。

ご本尊様は、大きな施錠穴にレンズヘッドを差し込んで撮りました。どうかなぁー、明日も早起きして次のを撮りに行けるかな?

1通のFAX

2005.3.31 投稿 バブル経済最盛期のころ、興味深い内容のFAXがUSAから届きました。元発信者の誤送信により、彼が彼の本社へ送った筈のFAXがうちの系列ディラー入ってしまったのです。そのディラーは内容が内容だけに、そのFAXを私に転送して来ました。

実は私は、その少し前にその彼の本社から半ば脅しに近い厳しい絶縁状を受取っていたのです。そのUSAの会社は所謂、業界では老舗で絶大な知名度を誇って いました。翻って、我々は所謂、駆出しのハナタレ小僧でした。言わば、巨人と小人の関係でした。がしかし、そのFAXを読んで、何れこの巨人を打破れそう な気がしてきたのでした。

FAXは我々ルーキーが、その半年ほど前に発売した処女作に慌てふためいている内容でした。我々としては処女作でもあり必ずしも100%満足している訳で なく、言わば駄作のような作品でした。にも拘らず、あの巨人が慌てふためいているではないか、あの絶縁状は何だったのだろう、敵は張子の虎か・・、と内心 ほくそ笑んだのでした。・・・・続く

住まいの周辺地図

2005.3.30 投稿 高松から徳島へ続く11号線沿いにくーちゃんは住まってました。住まいから南に20mほど行った所にあるのが「長刀泉」です。黄色の下線をつけた場所が源平合戦の史跡です。もう少し北へ足を延ばすとまだまだあります。琴電「八栗」駅に向かう途中に義経の身代わりになって戦死した「佐藤継信」の大きなお墓があります。

上が「長刀泉」の言われはです。

そしてこれが長刀泉です。